パンデキュイソン。
私たちオカモト商店の近くに、パンデキュイソンというパン屋さんがある。

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モダンな感じの店舗デザイン。そして、売られているパンもどれも美味しく、久留米でも評判のお店である。

フランスパンをベースにしたサンドイッチは秀逸。ピクニックに出かけて、ワイン(白がいいですね)に合わせて食すると最高である。

キュイソン、というのはどういう意味なのかな?と疑問に思い、調べてみると、

※cuisson(女) キュイソン [調理技術] 食物を煮る液体 加熱処理 煮ること 焼くこと

と載っていた。

なるほど、煮たり焼いたりしてパンを作りました、という意味なんだな。惣菜パンというところだな。

ギャルソン、が男で、キュイソンが女なのかな?

そうすると、コムデキュイソン、ってブランドあってもよさそうですね。余計なお世話ですけど。

結構品薄なんで、すぐ売り切れるそうです。(以前はそう聞きました)お求めの場合は、どうぞお早めに。

2006-04-27 14:26 | 久留米 | Comment(0) | Trackback(0)
久留米絣の「白波」。
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これは、「白波」という名前がついた絣である。

幾何学模様が、少しづつずれて、まさに波の形を表現している。

このように、絣は自然のものをモチーフにしたものも多い。

同じ波でも、青海波(せいかいは)という波の柄もある。

青い波と白い波。

「blue wave & white wave.」

日本海は白い波で、太平洋は青い波。

何となくそんなイメージがある。

そういえば、白波といえば焼酎だな。

ブルーウェーブは、ビールで太平洋。ホワイトウェーブは、焼酎で日本海。

そんなイメージだと思いますがいかがですか?

2006-04-10 18:39 | 久留米 | Comment(0) | Trackback(0)
松尾食堂。
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松尾食堂をご存知だろうか?

と、唐突に言われても分からないだろうから、少し注釈をつける。

松尾食堂は、久留米の繁華街である文化街から、少し歩いたところにある大衆食堂である。

創業昭和6年のこのお店は、昔ながらの店構えと、何とも独特な味わいのドンブリもので、久留米はもとより、全国的にも有名なお店だ。

「一度、食べたら忘られぬ」というCMでの名フレーズは、「博多ぶらぶら」だっただろうか?(福岡以外の方にはわからないかもしれないが‥)まさに、この店のドンブリは、「一度食べたら忘られぬ」だ。

遠い思い出がある。

暑い盛りの夏、近所の友達と野球をしたあと、お腹が減ったという話になり、皆で「松尾食堂」に行くことになった。

家に帰れば、ご飯があるにも関わらず、何となくそんなムードになって、皆で出かけた記憶がある。

ソウルフード、という言葉がある。地元の味というやつだ。久留米独特の甘い味付けがついた、ここのドンブリを食べる時に思い出す望郷感は
、俺のソウルを激しくノックする。

いつまでもこの地で、燦然と輝いていてほしい。

松尾食堂よ、永遠なれ!
2006-04-07 18:58 | 久留米 | Comment(0) | Trackback(0)
久留米。



西鉄久留米駅に佇んで、ふと見上げるとそこには「久留米」の文字が。

「久留米」という文字をじっと見つめる。

三文字の地名って、意外と少ないかもしれない。

久留米か。久しく米が留まる、という意味なのかな。

ということは、米には困らないということなのか。

そういえば、米が貨幣の変わりになっていた時代もあったと聞く。

そう考えると、この街はとても可能性を秘めている街だと思う。
2006-03-21 23:22 | 久留米 | Comment(0) | Trackback(0)
久留米絣とロックの共通性。
いつもどうでもいいようなことをつらつらと考えているのだが、今日もどうでもいいようなことを考えたので書き記しておこうと思う。私は現在、久留米絣というものの販売に携わっている。この久留米絣というものは、ロックと似ていると思ったのだ。ここでいうロックとは、音楽のジャンルとしての「ロック」だ。岩の「ロック」でもなければ、ラグビーのポジション名「ロック」でもない。そんなことは分かっているよ、と言われそうだが、絣とロックの共通点というのもなんだかよく分からない話なので、以下にその根拠を記したいと思う。理由は3つある。まず第一に「アコースティック」と「エレクトリック」が存在するということだ。ロックにはいろんな表現方法があるが、基本的にはギターやベース、そこにドラムやキーボードなどが合わさってアートを奏でるのが一般的だろう。そして、それぞれは電気を使うか、使わないか、という選択肢が存在している。アコースティックを選択するか、エレクトリックを選択するかは、そのアーティストの考えによると思うが、それはその表現方法と密接な関わりがあると思う。絣にもその二つは存在する。それは「手織り」と「機械織り」だ。ロックがその楽器によって表情を全く変えるのと同様に、絣もそれぞれの味わいが存在する。手織りの生地は、まるでボブディランのような哲学性を感じさせるし、また機械織りの機の音色は、チャックベリーのような疾走感がある。そして次に、アートフォームとしての普遍性が挙げられる。ご存知のようにロックは、その源流をR&Bから発し、様々なカテゴリーの音楽と融合しながら、その形を生成発展してきた。そして、21世紀現在、さらに多くののジャンルとさらに融合しながらその形を変化させているが、実はその本質はさほど変わっていないといいうのが私の考えである。それはロックという楽曲が、その構造において典型的な「型」が存在しているという点だ。様々なアレンジや曲の転調で、一見その型は多岐にわたっているかのごとく錯覚を受けるが、装飾をそぎとってそのコード進行に目を見開くと、意外なほどそのバリエーションは少ないのが分かる。つまり、50年代に確立されたその型の土台の上に、様々な飾りが乗っかっているというのがその本質だと思うのである。これは、絣の柄が「十字」「井桁」など典型的かつ古典的なな柄の派生でそのバラエティを拡大していることに酷似している。古典的かつ普遍的な「型」が存在し、その源流を受けながらアップトゥデイトなものを提供するというそのシステムは、現在の久留米絣に存在するし、その関係性はブルースにその源流をおいたロバートジョンソンとエリッククラプトンの関係性を彷彿とさせる。そして、最後はそのものがおかれている「立場」だ。ロックとは、一言で言うと、「感情」だ。そのように言い切ってしまうほど、その表現は、人間そのものだ。たとえそれがブルースであろうが、パンクであろうが、そこには人間としての喜怒哀楽が確実に存在している。そこにその精神性がなければ、ロックではないし、それがなければロックと名乗る資格はないと断言する。しかし、そうであっても、それを受け取る人が存在しなければ、それはたとえアートであっても、ルンペンプロレタリアートと化してしまう。よって、幾許かのマーケティング思想は必要だろう。しかし、現在のマーケティング至上主義には異を唱えたい。あくまでの土台は、その精神性にあるのだ。そして、それを小脇に携えながら、市場というものと対峙していくことがあるべき姿だ。絣でも同様だ。そこにその人の情熱が存在するから、それは輝く。しかし、情熱だけでうまくいくほど世の中は甘くない。その情熱の使い方も少なからず意識しながら、どこに注ぎ込むかを判断することが肝要だ。それは言うほどたやすいことではない。しかし、それが実現したときに、その創造物は、その形から精神だけが浮かび上がり、受け手の魂を貫いていく。そして、そこに存在した価値は永遠不滅のアートとして、いつまでも語り継がれるものへと変化する。それを人は「伝説」と呼ぶのだ。20世紀を彩ってきた伝説のロック巨人がいるように、私たちの産地にも巨人というべき人物はたくさん存在する。そのような先人に対するレスペクトも含めて、「殿堂」制度を提唱したい。これもロックとの共通項であるのだ。いつの日か、絣のCMをロックの偉人を起用してやってみたい。そんなことを夢想している。
2005-12-22 17:52 | 久留米 | Comment(1) | Trackback(0)
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