違いについて
「私とあなたは違います」ということを認識することからコミュニケーションは始まる、という話を何かの本で読んだ。同感である。というか、当たり前の話だ。たとえば、海外に出かけるとする。そのときに、私たちはあらゆる努力をもってつたない言葉を駆使して、何とか意思を伝えようと努力する。あるときは、手振り身振りで、またあるときは、絵を描いてみたり、またあるときは、文章を書いてみたり‥‥。当然である。そうしないと、何も伝わらないのだから。(語学の達者な方はもちろん流暢に話しながら、コミュニケーションを成立させるのだろうが‥‥)また、もっとヘビーな状況だとしたらどうだろう。それがたとえば、自分にとって生き死にがかかっているような状態だったとしたら‥‥。もうそれは、伝えないとどうしようないから、それはすごい勢いで他者への理解を促進しようとすると思う。身振りだろうが、手振りだろうが、もうあらゆる自分の資源をフルに使って何とか伝えようとするだろう。なにせ、生死がかかっているわけだから‥‥。問題は、「違う」ということを認識しているかどうかだ。海外だとそうなるのだが、国内ではどうなのだろう。言葉が通じるとかそういうことではない。髪の毛の色や、目の色や、肌の色とか、目に見える部分での違いは見れば分かる。誤解してほしくないが、違うということが悪いということではなく、(当たり前だそんなの。書いてて頭にきた。)違いはあるということが前提だと思うだけだ。にも関わらず、なぜか私たちは勝手に「わかってるよね」という何の根拠もない、共同体幻想をいまだに持ち続けているような気がする。一体感を得ようとして、何かを訴えてももうそこに共同体への忠誠心は、絶対に芽生えない。それはすべて「違う」からだ。「違う」ということを認識してれば、よかったのだ。「話せばわかる」というのは幻想だ。(何かどこかで聞いたような話になってきたぞ)それでは聞くが、「違わない」ものとは何だろう?その「違わない」ものこそが、大事な気がする。それは何だ。教えてほしい。
2005-12-26 19:08 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
久留米絣とロックの共通性。
いつもどうでもいいようなことをつらつらと考えているのだが、今日もどうでもいいようなことを考えたので書き記しておこうと思う。私は現在、久留米絣というものの販売に携わっている。この久留米絣というものは、ロックと似ていると思ったのだ。ここでいうロックとは、音楽のジャンルとしての「ロック」だ。岩の「ロック」でもなければ、ラグビーのポジション名「ロック」でもない。そんなことは分かっているよ、と言われそうだが、絣とロックの共通点というのもなんだかよく分からない話なので、以下にその根拠を記したいと思う。理由は3つある。まず第一に「アコースティック」と「エレクトリック」が存在するということだ。ロックにはいろんな表現方法があるが、基本的にはギターやベース、そこにドラムやキーボードなどが合わさってアートを奏でるのが一般的だろう。そして、それぞれは電気を使うか、使わないか、という選択肢が存在している。アコースティックを選択するか、エレクトリックを選択するかは、そのアーティストの考えによると思うが、それはその表現方法と密接な関わりがあると思う。絣にもその二つは存在する。それは「手織り」と「機械織り」だ。ロックがその楽器によって表情を全く変えるのと同様に、絣もそれぞれの味わいが存在する。手織りの生地は、まるでボブディランのような哲学性を感じさせるし、また機械織りの機の音色は、チャックベリーのような疾走感がある。そして次に、アートフォームとしての普遍性が挙げられる。ご存知のようにロックは、その源流をR&Bから発し、様々なカテゴリーの音楽と融合しながら、その形を生成発展してきた。そして、21世紀現在、さらに多くののジャンルとさらに融合しながらその形を変化させているが、実はその本質はさほど変わっていないといいうのが私の考えである。それはロックという楽曲が、その構造において典型的な「型」が存在しているという点だ。様々なアレンジや曲の転調で、一見その型は多岐にわたっているかのごとく錯覚を受けるが、装飾をそぎとってそのコード進行に目を見開くと、意外なほどそのバリエーションは少ないのが分かる。つまり、50年代に確立されたその型の土台の上に、様々な飾りが乗っかっているというのがその本質だと思うのである。これは、絣の柄が「十字」「井桁」など典型的かつ古典的なな柄の派生でそのバラエティを拡大していることに酷似している。古典的かつ普遍的な「型」が存在し、その源流を受けながらアップトゥデイトなものを提供するというそのシステムは、現在の久留米絣に存在するし、その関係性はブルースにその源流をおいたロバートジョンソンとエリッククラプトンの関係性を彷彿とさせる。そして、最後はそのものがおかれている「立場」だ。ロックとは、一言で言うと、「感情」だ。そのように言い切ってしまうほど、その表現は、人間そのものだ。たとえそれがブルースであろうが、パンクであろうが、そこには人間としての喜怒哀楽が確実に存在している。そこにその精神性がなければ、ロックではないし、それがなければロックと名乗る資格はないと断言する。しかし、そうであっても、それを受け取る人が存在しなければ、それはたとえアートであっても、ルンペンプロレタリアートと化してしまう。よって、幾許かのマーケティング思想は必要だろう。しかし、現在のマーケティング至上主義には異を唱えたい。あくまでの土台は、その精神性にあるのだ。そして、それを小脇に携えながら、市場というものと対峙していくことがあるべき姿だ。絣でも同様だ。そこにその人の情熱が存在するから、それは輝く。しかし、情熱だけでうまくいくほど世の中は甘くない。その情熱の使い方も少なからず意識しながら、どこに注ぎ込むかを判断することが肝要だ。それは言うほどたやすいことではない。しかし、それが実現したときに、その創造物は、その形から精神だけが浮かび上がり、受け手の魂を貫いていく。そして、そこに存在した価値は永遠不滅のアートとして、いつまでも語り継がれるものへと変化する。それを人は「伝説」と呼ぶのだ。20世紀を彩ってきた伝説のロック巨人がいるように、私たちの産地にも巨人というべき人物はたくさん存在する。そのような先人に対するレスペクトも含めて、「殿堂」制度を提唱したい。これもロックとの共通項であるのだ。いつの日か、絣のCMをロックの偉人を起用してやってみたい。そんなことを夢想している。
2005-12-22 17:52 | 久留米 | Comment(1) | Trackback(0)
時間の終わり。杉本博司。
アートや美術の鑑賞方法というのは確立されているのだろうか?どのような心構えでアートに接するべきなのだろうか?などということを根底から考えさせられるような美術展に触れることができた。1月9日まで六本木ヒルズ53階森美術館で開催されている「時間の終わり〜杉本博司〜」がそれである。なにせ無教養なものだから、現代アートの巨匠の名前すら知らなくて、たまたま同じビルで開催されているビビアンウエストウッド展に行ったときに何か予感がして観覧したというのが出会いの始まりである。表現方法としてのミニマリズムというものがいかに深遠でかつ観念的であるか。また「撮影」という行為の限界に挑み、その向こう側に飛び出そうとするようなアートフォームには正直恐怖さえ覚えた。何がリアルで何がリアルでないのか。リアルというものの正体は何なのか。そんなことを会場で作品を見るたびに考えた。そして、その製作過程に思いを馳せ、杉本博司というアーティストがなぜこの製作に至ったかを作品に対して問いかけているうちに、現実・過去・未来のポジションがこんがらがってしまいそうになった。と書いてても正直そのとき受けたインパクトの1000分1も伝えきれてないし、それを説明するだけの言語を自分としては持ち得てないと思っている。だから一度見ていただければ言いたいことはわかっていただけると思うし、そうとかしか言いようがない。会場の外に出て、作者の著書「苔のむすまで」(新潮社)を買い求めた。その本の一番最初には在りし日のワールドトレードセンターの写真が掲載されている。それも本当にワールドトレードセンターなのだろうか?という疑問を持ちながら、ふと現実に今自分がいる六本木ヒルズとが頭の中で交錯して戦慄を覚えた。作者の探究心と創造性に心から敬意を表したい。
2005-12-21 15:24 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
キャナルでチキンリトルを見る。
この前の日曜日、娘たちにせがまれて、キャナルシティに映画を見に行った。せがまれてというか、娘たちもどこで吹き込まれてたのか「エイガ!エイガ!」を意味もわからず連呼して、うるさいのでとりあえずいくか、という今日も相変わらずネガティブパパなのだ。そんなにエイガ!エイガ!というのなら「キングコング」でも見せて、震え上がらせたろか!と邪悪な思いが頭をよぎるが、まあ大人気ないなと自嘲して、マーケティングのセオリーどおりに顧客(娘たち)にお伺いをたてた結果、無難なところで「チキンリトル」なるものを見ることになった。「チキンリトル」。ディズニーの配給だそうだ。普通「リトルチキン」じゃないの?とどうでもいいようなことをつぶやきながら、まあ所詮子供相手の映画だから‥‥とばかりに
あまり期待もせず、なんとなく眺めていた。内容は、一言で言うと「父と子のコミュニケーション断絶とその修復」ということだろう。いつの時代も、子供は大人に対して「大人はわかってくれない」という態度だし、大人は子供の成長に対して常に目線が低いままだ。そして、そのギャップが時に相互のコミュニケーションを奪うことになる。また、そのような状態に対し、一番の処方箋は、危機的状況をお互いに力を合わせて乗り越えていくという、これも世の東西を問わず普遍的なテーマである。そのようなセオリーに乗りながら、チキンリトルの物語が進むのだが、なんだか小馬鹿にしていながら、どんどん引き込まれていってしまった。ちきしょう。これだからアメリカの映画はいやだ。単純だよね、そうだよね、などとわかっちゃいるけど、いつのまにか熱中している俺、みたいな。ハリウッドとディズニーの陰謀にまんまと引っかかってしまったのである。エンディングに、シュープリームスの「エイント・ノー・マウンテン・ハイヤー」が流れる。映画のテーマと重ね合わせて、思わず涙がこぼれてしまった。ちきしょう、悔しいなあ〜、って思って、娘たちにどうだった?って聞いたら「うん、うるさかった!」ってお前たち、冷静にいうなよおおおおお。
泣いてる俺をどうにかしてくれーっ。
2005-12-20 18:32 | Life Sketch | Comment(0) | Trackback(0)
精神と肉体について。
「精神と肉体は、分離でき得るものなのだろうか?」という問いに対してどのような答えますか?

と、言うとあまりにも抽象的なので、少し説明を加えます。簡単にいうと、悲しいときに人は泣きますが、たとえ悲しいときでも泣かない、ということです。

今度は、あまりのもシンプルにしすぎました。(だめだ、うまく言いたい表現が見つからない‥‥)

つまり、飛び上がるほど嬉しいことがあっても、何てことないよ、とでもいうようにさらりとした雰囲気を漂わせてる、ということが出来ますか?ということです。

泣きたいほどの感動が自分に押し寄せている時に、何かの理由でその感動をじっとこらえている状態も同様ですね。

あと、その時にめちゃくちゃ腹が立っているにも関わらず、こらえていることが出来るかどうか?というのも同じです。

と、このように言うと簡単そうですが、話はそう簡単ではなくて、人間は感情の生き物と言われますので、喜怒哀楽で何らかの反応があるのが普通だと思うのです。

たとえば、平静を保ってるように見えても、どことなく落ち着きがないとか‥‥。あと、目は口ほどに物を言う、とか言うように目を見ればわかるとか、ほんとに些細なところの反応が出てしまうことが当たり前だと思うのです。

それで、何でこんなことを思ったか、と言いますと、ことほど左様に感情と肉体は切っても切れない関係でもあるのですが、
感情と肉体をつなぐ回路らしきものを訓練することによって、社会と折り合いを付けることが「生きる」ということなのかなとふと思ったからです。

あれ、ということは「生きること」は「耐えることなのかな」?いや、そのことを「耐える」という発想が間違っているのかな?

だめだ、だんだんわからなくなってきた。よって、底なし沼に沈む前に終わりたいと思います。申し訳ございません、いい加減な話で‥‥。

筑後地方は、とても寒くなってます。どうか皆様、体調に気をつけてお過ごしくださいませ。
2005-12-16 10:15 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
「パリ」の仕組み。
「パリの仕組み」(川村由仁夜著、日本経済新聞刊)という本を読んでいる。

ファッション制度がパリをブランドにした、と帯に書いてある。パリとファッションは、切っても切れない関係ということだ。

ファッションと言えば、パリ。パリと言えば、ファッション。

パリで認められなければ、ファッションにあらず。すべてのファッションの基準それはすなわちパリ。

羊羹と言えばとらや。うなぎと言えば野田岩。ファッションと言えばパリ。そして、3時のおやつは文明堂。

ファッションのオーソリティ。ファッションの殿堂。ファッションの王道。それはパリ。

何人たりとも、パリを語らずしてファッションを語るなかれ。

でも、ファッションとは一体何なんだろう‥‥。
2005-12-09 19:33 | 本の紹介 | Comment(3) | Trackback(2)
拝啓、ジョンレノン様
ジョンレノン


六本木ヒルズ52階をうろうろしていたら、ジョンレノンのポスターが目に入った。

そうか、12月8日は、ジョンの命日だった‥‥。

没後25年になるらしい。そうか、あれからもう25年も経つのか‥‥。

ジョンが、マークチャップマンという男の放った凶弾に倒れて、その魂を置き去りにしたまま、どこか遠くに旅立つように、この現世から姿を消したのは、1980年のことだった。

当時中学3年生だった自分は、ビートルズは愛聴していたものの、その活躍の時代はリアルタイムでなく、またジョンレノンよりもポールのほうが印象深かった。

あるとき、ジョンレノンが幾年かの沈黙を破って新しいアルバムが発売される、とラジオのDJが興奮気味に話していた。自分は、その話を聞きながら、たいして、気にも留めず、あのビートルズのジョンレノンか、というぐらいにしか思わなかった。

そして、何日かが過ぎたある日、ラジオから「STARTING OVER」から流れ出した。そしてその曲を聴いて、そのメロディの美しさと、独特のビートに、心揺さぶられた。そして、その1曲で、自分の中のジョンレノンはすっかり膨らんでいって、一瞬にしてそのとりこになってしまった。

それから、また幾日かが経った寒い冬の日。確か学校でだったと思う。悲しみのニュースを受け取ったのである。

何日ぐらいだったのだろう。ジョンを意識して、そしてその最後のニュースを受け取るまでの期間は。

寂しいとか、悲しいとかの感情はなかった。あったのは、「なぜ?」という疑問だけだった。

ジョンレノン。享年40歳。彼の年についに自分は並んでしまった。

今日は、あのときのことを思い出しながら「DOUBLE FANTAGY」をゆっくりと聴きたいと思っている。
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2005-12-08 13:28 | Life Sketch | Comment(0) | Trackback(0)
ビビアン・ウエストウッド展
ビビアン・ウエストウッド展


ビビアン・ウエストウッド展に行ってきた。

70年代のパンクファッションから始まった氏のこれまでの軌跡が、そのコレクションとともに映像などとともに展示・紹介されている展示会だった。

ストリートファッションからクラシックなものへ、その変遷は大きく変化していったものの、その根底に流れているのは、ファッションへの熱い情熱であるだろう。

会場の映像の中で、氏はこのようなことを発言している。

「傲慢であることは、私にとって、とても快適なものなのです。」

現在は、供給者受難の時代といわれている。それはつまり、消費者へのパワーシフトが進んでいることに他ならないのだろう。そして、それは異常なくらいの市場志向性を生み、マーケティングというものの重要性が益々加速していく。

そして、それは同時に、オリジナリティや、創造性などの芽を摘んでいくことにもつながっていく時代でもあるのは間違いない。

そんななかで、ある種の確信性をもちながら、まるで反逆児のように、自己のポリシーを発し続けることは、並大抵なことではないと思うのだが、それが氏にとっては極めて自然のように思える。

しかし、ファッションというものに、自己主張という側面があるとしたら、その態度は至極当たり前なのかもしれない。一体、何が当たり前で、何が当たり前でないのだろう。

六本木ヒルズ森タワー52階にあるアーツセンターギャラリーで1月15日まで開催されている。

誰もが心の中にある「反抗の魂」を呼び戻してくれる展示会であった。
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2005-12-07 13:26 | Life Sketch | Comment(0) | Trackback(0)
銀座くのや
銀座くのや


昨日に引き続き、東京銀座関連の話を記したい。

銀座中央通り、松坂屋の前に「銀座くのや」というお店がある。

和装小物専門店である「銀座くのや」は、創業1837年という老舗中の老舗である。「銀座マーケティング」(丸木伊参著、ダイヤモンド社)という本によれば、もともと銀座みゆき通りで糸商を営んでいて、その後、羽織のひも、和装全般と扱い商品を変化拡大させながら、家業を継続させてきたということだ。

一時期、店舗は十七店あったが、現在は銀座と京都の2店になっているそうだ。

なぜ、多店舗化したのか。そしてなぜ、縮小したのか。その理由もこの書の中で明確に記されている。

多店舗化は、「オリジナル商品開発のため」。縮小は、「量ではなく、感性と質の時代に入ったと判断したため」、と極めて明快なのである、

また、苦心して開発したオリジナル商品が、他社にコピーされて出回るということがたびたびあったことにもこの書の中で言及されている。そして、店舗が百貨店内だったことから、主に百貨店に出入りしているメーカーが、競ってコピーをしていたとのことだ。

そんなことにも嫌気が差し、店舗の閉鎖に踏み切ったと記されている。

コピー商品が出回るのを防ぎ、陳腐化を防ぐ。それはすなわち、「のれんを守るため」ということでもあるし、「日ごろごひいきにして頂いている顧客の信頼を守るため」ということだと自分としては解釈した。

そのような、気概と哲学がここには存在している、と感じた。

そして、その精神性こそ、「コピーすべきもの」だと思った。心から見習いたいと思う。
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2005-12-06 13:25 | Life Sketch | Comment(0) | Trackback(0)
東京・銀座・資生堂
資生堂


わけあって、東京に来た。

そりゃそうだろう。わけもなく来てたら、怖いもの。と、思わず自分で自分にツッコミ入れたが、そんなことはどうでもいい。

それで、ある約束があって、銀座に行ったのだが、しばらく時間があったので、銀座通りを歩いていた。

東京、銀座、と言えば、資生堂というのが、定番だ。いや、こういうのを刷り込みというのかな。または、偉大なコピーライティングとでもいうのだろうか。

日本全国の人に、「あなたは、東京・銀座と聞いて、次に何を連想しますか?」という質問をしてみると、恐らく79%ぐらいの人が「資生堂」というのではないだろうか、と思うのである。

資生堂か。「資本が生きる」という意味なのかな?それとも「資材が生きる」?それとも生きるではなくて、生かす?まあ、なんでもいい。

考えたのは、東京・銀座というのが、すでにブランドなんだろうな、と思ったのだ。東京・銀座のイメージというものが、なんだかよく分からないけど、すごく高尚なイメージと、こう文化的なものを彷彿させるものがあって、それでだけで、「ごめんなさい!」って感じがあるのだと思う。

あと、京都・祇園とかね。神戸・元町とかもそうかもしれない。

一種の「憧れ」みたいなものだと思うね。それは。

いまさら、って感じかもしれないけど、やっぱりそんな「憧れ」みたいなものって大事だと思うのである。でも、現実があるから「憧れ」って存在するしね。

さて、そうは言っても、街は一種の生き物というのも事実だと思う。だから「街ブランド」も時代とともに変わる可能性もあるのではないか、というのが今日の結論です。
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2005-12-05 13:22 | Life Sketch | Comment(0) | Trackback(0)
博多ニューオータニでの結婚式
ニューオータニホテル


会社の仲間が結婚した。

場所は博多のニューオータニホテルである。

福岡市内には、立派なホテルが数多くあるが、その多くは外資系ホテルであるようだ。

そんな中、ニューオータニホテルは、老舗の国産(?)ホテルであり、いわゆるきらびやかな感じはしないものの、上品な佇まいを保っているホテルだと思う。

そして、本日、そんなホテルでの結婚式に御呼ばれして、出かけたのだが、やはり最初のイメージと寸分たがわず、上品なサービスで大変すばらしかった。

メインの料理はフィレ肉だったのだが、会場でシェフが調理して、熱々の状態のまま、配膳するという気配りのあるものだった。

それから、会場の調度品や、テーブルクロス、お皿なども、上品にまとめられていて、とても好感を持った。

そういえば、ごま焼酎の「紅乙女」を使った「舞乙女」というカクテルがあるのだが、そのカクテルはずいぶん前(20年位前)とあるカクテルコンテストで優勝したことがあり、それが生まれたのが、このホテルの地下にあるバーであったと記憶している。

そのカクテルを作ったバーテンさんは、オータニを経て、現在大名でお店をやっていらっしゃると、件の焼酎の製造元の社長である林田さんに伺ったことがる。機会あれば、伝説の舞乙女を、その開発者の作るレシピで飲んでみたいものだ。

そんなわけで、すばらしいホテルで、すばらしいカップルの誕生をお祝いすることができて、本日は、とてもいい時をすごしたわけである。
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2005-12-04 13:21 | Life Sketch | Comment(0) | Trackback(0)
絣の市松柄トートバッグ
トートバッグ


新製品の紹介をさせていただきたい。

久留米絣のトートバッグである。「幸来るトートバッグ」と名づけられたこのバッグは、縦長のトート型で、とても使いやすそうな一品である。

肩からさげてもよし、手提げとしてもよし、雑誌がすっぽり入るサイズで、男女問わず、また年代問わず使用できるというのもポイント高いのだ。

そして、このバッグの柄を見てほしい。細かい市松の文様だ。深い藍で染めて、手織りで作られたこの生地は、久留米絣の巨匠・小川内龍雄によるものである。

この市松模様。その由来は、江戸中期にさかのぼる。歌舞伎役者である佐野川市松という人物が、好んで使用していた柄なのでこのような名前がついたそうだ。

紺と白が織り成すコントラストが美しい。これこそが、まさに日本を雄弁に語る文様である。

ルイ・ヴィトンのダミエ柄もいいけれど、ここにもそれに勝るとも劣らないものが存在していることを、どうか解ってほしい。

価格は7800円。価格以上の価値はあると自負している。

入荷は春のころ。幸きたる春になることを祈るばかりである。

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2005-12-01 13:17 | 儀右ヱ門 | Comment(0) | Trackback(0)