6月30日。最終日。
今日で、当社の第36期が終了した。

今年1年間は、本当にいろいろなことがあった。

嬉しいことも、悲しいこともたくさんあった。

また、自分の不甲斐なさを実感したし、苛立ちも数多くあった。

すべて、過去のことだ。

過去を糧にして、どう生かしていくか。

そんなことを考えていきたい。


会社の中にいる、多くの才ある、また信頼できる仲間は、かけがえのない財産だ。

この仲間と一緒に仕事ができることが、本当に幸せであり、また誇りでもある。

一人ひとりに心から感謝をしたい。



全国のショップの販売スタッフ皆様、いつもお疲れ様。

今年も多くの方に「想い」を伝えてくれてありがとう。

毎日の立ち仕事で、本当にお疲れだろうと思う。



いつも、私たちを支えてくれる、お取引先の皆様。今年も多くの展示会に足を運んでくださってありがとうございました。

お時間を割いて、お越しいただいたこと、そのこと自体が、本当にありがたいことです。

皆様の期待に答えるために、来年、もっともっと頑張ります。



素晴らしい珠玉の生地を提供してくれる、久留米絣の機屋の皆様。工場のみなさま。

機屋の皆様なくして儀右ヱ門は、1日たりとも、ありえなかった。

いつまでも、変わらないものを見つけに、これからもともに歩んでいけたら、こんなに嬉しいことはありません。



そして、当社の製品に何かを感じていただき、生活の一部にしていただいたお客様へ。

心からお礼を申し上げます。皆様の生活や暮らし、人生の一部になれたことが、嬉しくてたまりません。

どうもありがとうございました。



それから、いつも、不甲斐ない自分を支えてくれる家族・兄弟。多くの親戚の皆様。

天寿を全うし、旅立った、偉大な先輩の皆様。

感謝の気持ちは、言葉にならない。

ただただ、ありがとう、という想いばかりだ。


明日から、博多で祇園山笠がスタートする。

想いを新たにして、気持ちを担い、誇りを持って、長法被を着たい。

来年は、そして、今年の山笠は、どんなドラマが待っているのであろうか?


皆様にとって、これからの1年間が益々、幸多いことを祈念しながら、

今日の一日を締めくくることにしたいと思う。

皆様、1年間、本当にありがとうございました。

そして、どうぞ来年も何卒よろしくお願い申し上げます。
2006-06-30 19:03 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
和風テースト。
よく「和風」「洋風」とかいうけど、「風」ってのがよくわからない。

「洋風」とかいうけど、それは、ヨーロッパのことなのだろうか?それともアメリカ?まあ、「欧米」というから、総称しているのだろうけども、なんか全然文化が違うから、えらく大雑把だな、とは思うのだが。

あと、「和風」っていうのも、日本の伝統みたいな感じ?ということなのだろうか?

和風スパゲッティというのがあるが、大体醤油味であるような気がする。だったら、醤油味スパゲッティということになると思う。

「〜風」とかいうと、イメージが曖昧になる。それがいいのかもしれないが、まあごまかしという感じが無きにしも非ずだ。

それで、「〜風」もよくわからないのに、それにかてて加えて、最近では「和風テースト」という言葉もある。「風」に「テースト」が加わっているのである。なんだか、どんどんオリジナリティが薄れていく感じがするなあ。

「テースト」っていうと、なんか食べ物みたいだ。「テースト」って口にすると、いつも頭に浮かぶのは、食パンである。

まあ、世界はいろんなことがクロスオーバーしているから、風とかテーストとかが多くなるもの無理ないのかもしれない。

まあ、そんなことがあって、儀右ヱ門さんって、和風テーストだよね、とかって言われると、その場では、そうですね、などと取り繕うのであるが、何か違和感を感じてしまう今日この頃なのです。
2006-06-28 11:41 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
論理と情緒について。
藤原正彦氏のベストセラーである「国家の品格」の中で、筆者は、論理だけではダメで、情緒と形が必要だと強く説いている。

また、さらに、そのことに追い討ちをかけるように、「最低なのは、情緒がなく、ただ論理的なだけな人」と喝破していた。

それを読んで、ああそうか、と思いつつも、そんな人っているのかな?と思った。

情緒というのは、単純に言えば、「感情」ということだろう。つまり喜怒哀楽ということだ。人間は感情の動物である、とよく言うが、感情のない人間はありえない。

ただ、感情のポイントにおいては、個々人で相違点が出るかもしれない。ハイジを見て泣く人も、泣かない人もいるだろうし、横山やすしで笑う人も笑わない人もいるだろう。(なんか例が古いね、しかし。)

そういう意味では、情緒に関しては、バカの壁が存在するのかもしれない。僕は、サンボマスターで泣くが、泣かない人も大勢いるだろう。そこには、間違いなく理解不能な「バカの壁」が存在する。

でも、そんなことを考えていたら最近怒る人って少なくなったような気がする。怒ることは、エネルギーが必要だから、エネルギーがかかることはしないし、怒ったところで何も変わらないから、とニヒルに見ているのかもしれない。

そんなことを書きながら、ああ、それって俺もあてはまるかなあ、などと考えたりする。なんか、昔はいろんなことに腹を立てていたような気がする。今、感情を表に出して、怒ることってなくなったような感じだ。大人になった、ということだろうか?それともただ、シラケているだけなのだろうか?

あ、そういえば、あと、叱ると怒るは違う、とか言って、冷静に物を申すのは止めて欲しい。そんなの、怒るときにいちいち考えてられるか、と思ってしまう。

ああ、そうか、叱るは、論理的で、怒るは感情的なのだな。まあ、どうでもいいか、そんなこと。疲れてきたので、このへんで終わりたいと思います。
2006-06-27 14:18 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
言葉にならない。
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私事で恐縮ですが、昨日、祖母の法要がありました。

お寺での、お経と説教、それから納骨と滞りなく儀式は終わり、出席者で会食とあいなった。

会食での場で、故人の思い出を偲ぶ、ビデオを放映(?)した。

「言葉にならない」の歌とともに、数々の写真が、映し出されてやがて消えていく‥‥。まぶたに浮かぶのは、幾つもの思い出。

映像を見ながら、語り、笑い、そして涙とともに、芳醇なときが過ぎていった。

弊社のPC技術者である、タカダくんとヤナセさんによって作られたフィルムのおかげで、記憶の奥底に眠っていた「優しいときの光景」が鮮明に蘇ってきました。

心から感謝を申し上げます。どうもありがとう。
2006-06-26 15:59 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
今年の秋は、「縁起」がテーマです。



儀右ヱ門の秋のテーマは、「縁起」になりました。

縁起がいい、縁起物、縁起担ぎ、などと使われる縁起というコトバは、もともと「因縁生起」の略で、「他の関係が縁となって生起すること」と一般的に言われています。

つまり、くだけて言うと、「出会い」というようなことだと思います。

いい出会いをしたい、いい出会いがありますように、そんな思いをこめて、儀右ヱ門の商品開発チームが、精魂こめて作品を作り上げました。

写真の反物は、現在弊社のウインドウに飾られているものです。ちょっと見づらいかもしれませんが、縁起いい「松竹梅」「百万両」がモチーフになっております。

こんな楽しい反物を生かした、秋物が勢ぞろい。

これから夏本番を迎える前に、秋の話で恐縮ですが、ホントにいいものができています。

どうか、秋の儀右ヱ門をお楽しみに。

あ、でも、夏の儀右ヱ門もどうかお忘れなく。
2006-06-24 14:39 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
無題です。
「そもそも何が根本的な問題なのか?」という問いは、極めて有効かつ危険である、と思う。また同時に、その問題を認識するということは、勇気がいることでもある。

ただ、その根本的な問題と認識していることにおいても、それが果たして、正しいかどうかは、実際のところ、わからないのである。わからない、ということに対しては「やってみる」ということで一定の成果は出るのだろうが、「わからない」ことに対してメスを入れる、ということはかなりのリスクをはらんでいるのも事実である。

また、根本に対してメスを入れる、ということは、同時に、前提が変わる、ということも意味している。すなわち、ルールが変わる、ということだ。

ルールの変更は突然でないほうがいい。しかし、同時に理解しなければならないことは、ルールは変わることがある、ということだ。変わるかもしれないし、換わらないかもしれない、しかし、変わる可能性はある、ということを分かってなければ、変わる状況に対処はできない。

変わっていく状況は、目に見えないことである。しかし、それは確実にゆるやかに変化していく。完全に変わってしまったときに、あわてないように一体どういう対処というか心構えをもつということは、すごく重要なことのような気がする。

自分には一体、どんなスキルがあるのか。そのスキルは状況が変化しても、色あせない何かなのか。また知識はどれぐらいあるのか。何が分かっていて何が分かっていないのか。そして、これから何を持って「価値」としていくのか。そんなことを冷静に判断することが近道のような気がする。

以前、「チーズはどこに消えた?」という寓話がベストセラーになった。、(主人公はヘムとホー、だったっけ。)確か、この本のテーマは「変化に対応する」ということだった。本格的な変化はこれからどんどん起きていくことだろう。

出生率が低下して、人口が減り続ける。好む好まざるとに関わらず、確実に変化が進んでいる。
2006-06-23 11:27 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
仕事帰りに散髪をしました。
仕事が終わってから髪を切りに行きました。

散髪屋に着いて、ポイントカードを見ると、前回切ったのは12月29日!なんと、年末ではないか。半年間もの間、よく切らずにおれたなあ、と感心するやら呆れるやら。

髪の毛を切るときは、ザクッとというのが基本姿勢なので、たいがい短く刈ってもらうのだが、大体1ヶ月くらいなると、なんとも中途半端な状態になってしまう。

このタイミングで、切りにいけばいいのだが、なんだか忙しかったり、単なる不精が重なって、この時期を逃してしまうと、もうどうでもよくなってしまうのだ。

で、そこそこの長さになると、まあ、それはそれでそれなりに、まとまってくるので、大体そのままにしているというパターンであるが、最初に短くしているもんだから、それは、冷静に考えると(いや冷静でなくても)いびつな状態である。

それで、昨日はなんだか福岡は蒸し暑く、いっきに気持ち悪さが爆発し、もうダメ!とばかりに、発作的に切りに行ったという次第である。

まあ、よくもまあ、この暑い中に、こんな鬱陶しい姿をさらしてたよな、と自嘲しつつ、散髪屋ではいつものお兄ちゃんに、ザクッとやって頂いた。

何か、重いものが一気に取れた感じでスキッとした。

散発をしながら、床屋のお兄ちゃんとW杯の話で盛り上がった。

散髪屋を出たのは、9時30分。定時を30分延長して、切ってくれた。遅くまでホント申し訳ありませんでした。おかげでスキッとしました。改めて感謝です。
2006-06-22 09:57 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
楽団という組織についての考察。
先日、市民吹奏楽団の演奏を聴いて、これはこれで単純に音楽を楽しんだのであるが、「楽団」のあり方というものについていろいろと考えた。

要は、バンドである。たぶん3人編成が一番小さい単位であろう。3人バンドというと、そうだな、今ぱっと思いつくのは、サンボマスター。古くは、ポリスとかがあると思う。(スティングとアンディサマーと、あと、ええっとドラムの人は忘れた。)いづれも、ギター、ベース、ドラムの編成だ。

たぶん、ピアノとベースとドラムというのもあるのだと思うが、知識がないので具体的にどんなバンドがあるかはわからない。だけど、3人トリオというのは、リズムとメロディを作る上での一つの小宇宙なのだろう。

まず、ここがベースになったうえで、いろんなアプリケーションが加わっていく。一口にドラム、といっても、いろんな楽器があるだろうし、
それは、ベースやギターも同様だろう。また、これに金管楽器・木管楽器とかが加わったり、ストリングス(弦楽器)なんかも加わっていくと、すごいことになっていく。

いわゆるビックバンド、というやつだ。オーケストラというのもそうだろう。いったい何人以上がビックバンドというのかしらないが、もうそうなっていくと、調整役がいないと、うまく機能しなくなると思う。

それが、指揮者という存在なんだろう。

昔、指揮者というのは、なんでいるのかわからなかった。みんな譜面を見ながら演奏しているわけだから、あわないことはないんだろう、と思っていた。

しかし、指揮者がいないと確実に演奏は、機能しない。それはそうだろう、人間がやることだから、完全ということはありえない。もし道をはずれた場合は、指揮者が、連れ戻す役目になる。つまり、終演までの水先案内人なのである。

3人でやっていくときは、目をみつめあって、阿吽の呼吸で音が奏でられる。しかし、大人数になればなるほど、そこには、ある一定の規範とルール、また外れた(外した)ときの修正を誰かがやっていかなければ素晴らしいものにはなりえない。

そして、そのときに、必要なことは、一人ひとりの役割というものが明確になっているかどうかだ。こんな合奏をしたい、だから、こんなメンツで、こんな楽器で、合奏しよう、ということだ。

どんな楽器を、誰が、どのように奏でるのか。

会社とか、組織に置き換えても、これは普遍のことであると思う。

ある一瞬、ビックバンドが阿吽の呼吸で、音が交差する瞬間。それはたぶん、ぞくぞくするくらい、美しい瞬間でもあると思う。

そんな瞬間を味わいたいと思う。そして、そのために何が必要なのかを考えたいと思っている。
2006-06-21 11:03 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
W杯の饗宴で思うこと。
サッカーW杯が盛り上がっている。

せっかくの機会なので、W杯に関連することを記したいと思っているが、あまりサッカーに知識がない自分が文章を書くことにいささかのためらいがあるが、どうしても書きたいことがある。

今、W杯を見てて思うのは、この国にものすごく評論家が増えたということだ。

これは、自分も含めての話だが、一体いつからそんなにサッカー好きだったの?っていうぐらい、饒舌にサッカーを語る人が多くなったような気がするのだ。

しかも、その内容が、なんだかテレビの受け売りなのか何なのか知らないけど、やれ「決定力不足」とか「もっとアグレッシブに」とか、決定力不足はお前だろう!って突っ込みをいれたくなるくらいに、評論している人が多い。

ナカタは良かった、ヤナギサワはダメだった、カワグチはああでこうで、みたいに話を聞くけど、いったい何人の人が、日ごろの彼らのプレーに対して傾注していたか、疑問である。

すくなくとも、私は見ていない。いやべつに自慢するような話ではないが。だから、当たり前かもしれないが、彼らの思いなどというのは、知りうるべくもない。

もちろん、4年に1度の祭典だから、大騒ぎして、楽しく娯楽として見て、ああだこうだ、というのは別に悪いことではない、と思う。

しかし、W杯というものを人生そのものと捉え、彼の地でのプレーする
選手に熱い思いをささげる、その姿勢は、もしかしたらサッカー先進国と私たちの間で、圧倒的な違いがあるのでなかろうか?

少なくとも、彼らにとっては、W杯は娯楽ではない。

それでは何かといわれれば、「生きがい」なのだろう。「生きがい」というのは、それ自体がとてもリスクを孕んでいる。それがなくなれば、もうあとは何も残らないということだからだ。

そんな国のメンタリティを鑑みながら、現状の評論が飛び交うわが国の現状を比較すると、どうしてもことサッカーにおいては、サッカー先進国に比べて、成熟の度合いが違ってるような気がするのだ。

どうしようもない現状。それを打破する力。喜びと悲しみが交錯し、魂が昇華するような一瞬をプレーする。歓喜と絶望。そんなとてつもないエネルギーを本質的に秘めているからこそ、サッカーは素晴らしい。そしてとてつもない深みが存在すると思う。

その深化が現実化するのは、一体いつの日だろう。少なくとも、私自身は一観客として、その深みを獲得していないし、いつ獲得できるかは、現段階では全くわからない、と思っている。
2006-06-20 11:26 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
反省しないのは、危機感の欠如か?
「あなたは、反省をしない人だね」といわれたりします。

人の見方は、様々だから、そう見られればそうなのだろう。

それで、別に反論するわけでもないが、反省をしてないかと言えば、そうでもない。それなりにしている、と自負しているのだ。(って、そんなことで自負してどうするよ。)

というか、まあ、反省のもとになるのは、失敗というやつで、失敗は誰でも嫌なわけだから、次は失敗するまい、と考えるのは、当然と言えば当然なのだ。

それで、いろいろと考えたんだけれど、次のようなことがありえないだろうか?

1、反省をする視点が甘い。反省するときに、本質的なところまで反省していないので、同じような失敗をする。

2、失敗に対する捉え方が弱い。失敗をばねにして、などという楽天的な考えがどこかにあって、失敗をリアルに感じていない。

それで、1&2を総合して考えると、まだまだどこかにゆとりがあるのだなあ、と自分でも、ちょっとなんと言うか、書いてて思うのは、自分自身を甘いなあと感じてしまうのだ。

そういえば、以前読んだ村上龍のエッセイで、日本人は「危機感」の捉え方が希薄だ、というようなことを書いてあったのを思い出した。

そんなことを考えながら、自分自身のありかたを振り返ったりするのだが、人事を尽くして天命を待つ、というコトバもあるので、まだ尽くしていないのだろうな、と思う。

まあ、そんなことを言いながら、果たして自分がそんなストイックなことができるだろうか?という問題は、また別の部分で存在するような気がします。

でも、これから嫌でも変わらざるをえないようなこともありえるだろうな。

もっと、強くならなきゃね。

心も体も。
2006-06-19 10:29 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
市民吹奏楽の演奏会に出かけました。
会社の社員が参加しているという、市民吹奏楽の演奏会に出かけた。

会場は、ほぼ満員であった。人気の高さ、というか、多くの人に支持されているということなのだろうが、その理由は、実際にライブ(というのかな?)を聴いて、理解できた。

すごく観客を楽しませようとするのである。単なる演奏だけではなく、ちょっとしたトークショーがあったり、抽選会があったりと、その内容はすっごくエンターテイメントにあふれているのである。

抽選会というのも、なかなかに芸が細かい。観客の席のまわりにピンクのサファイア(もちろんおもちゃです)が、隠されていて、それを見つけた人に、プレゼントが進呈されるというあんばいなのだ。

ところで、なぜそんな方法をとっているかというと、その前に「ピンクパンサーのテーマ」を演奏していて、ピンクパンサーというと探偵ものなわけだから、「探す」ということに引っ掛けているのだ。

ちなみに、プレゼントは、80個というか80名に用意されていて、そのブツはというと、ピンクパンサーの巨大なビニール人形なのである。

まあ、そんな感じで、演奏はもちろんすばらしかったのだけど、サービス精神旺盛で、いやはやちょっとしたショーを見た感じで、何とも楽しかったのである。

ちなみに、演奏曲は、映画をテーマにしてチョイスされていました。「ベンハー」から「タイタニック」「インディジョーンズ」から「シャル・ウィー・ダンス?」まで、まあ一度は聴いたことのあるような曲が多くて、これもまた親しみやすくてよかった。

それから、件のピンクパンサー人形だが、僕の席にはなかったのだが、たまたま来場していた会社の女の子があたっていたのだが、僕の子供のことを慮って、譲ってくれた。おかげで、僕の二人の娘は大喜びだった。

この場を借りて、「どうもありがとうございました」
2006-06-18 21:40 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
展示会。
6月は、展示会の月である。

現在、久留米の本社では、秋物商品が陳列されており、先週から今週にかけて、お取引先様、全国のショップの店長さんに、多数ご来場いただいている。

展示会の目的は、商品の注文をいただくことであるが、それがすべてではない。

多くの人が、ある一定の期間に、出会うことになるので、情報交換が可能になる。

情報の交換を通して、また違った何かを生み出すことができる。つまり、次へのヒントが隠されており場でもあるのだ。

新しいものを生み出すというのは、突然どこからか舞い降りてくるわけではない。

いわば、無数の出会いから蓄積された情報が、何らかの一貫性をもって繋がる瞬間、それこそが創造というものではなかろうか。

創造は、ひらめきによって生まれるものではない。極めて地道な思考の積み上げの中から生まれてくるものなのだ。

「創造の神」は、そんな地道で泥臭いことを、きちんとこなす人に微笑みかける。

つまり、「継続による恩恵」がここでも存在するということだ。

展示会という場を作り、その中で、作り手と売り手が交流し、情報を交換し続ける。そんな交易点を創造していくことが、僕らに与えられた使命である、と思っている。
2006-06-17 15:58 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
テレビ。
昨日の夕方、6時30分から5分間、NHKで儀右ヱ門のもう一つのブランド「gi」が紹介されました。

「久留米絣を若者に」というテーマで、店長のコーダくん、デザイナーのウキノリさんへのインタビューを交えながら、商品やお店の紹介、といった内容でした。

福岡ローカルの番組でしたが、商品の良さや、お店の雰囲気が伝わってくる充実したものでした。

5分間という時間は、短いようで結構長い。何かを「伝える」ということにおいての、一番最適な時間であるかもしれません。

テレビのいいところは、ある一定の時間で、多くの人が、映し出される内容を、同時に「目撃」するということだと思います。

言ってみれば「共通認識」を作ることにすごく最適なメディアということですね。

ライフスタイルの多様化ということが叫ばれて久しいですが、「昨日のテレビの内容」が翌日話題になる、というような動きはまだまだ健在である気がします。それは、先日のW杯日本対オーストラリア戦の翌日を見れば分かります。

W杯を大きな広場でみんなで見るというパブリックビューイング会場に、多くの人が詰め掛けるのは、まさに「感動の分かち合い」以外何者でもない。

たぶん、力道山の時代から、本質的には、僕たちは変わっていない、そんな気がします。

話が脱線しました。福岡にお越しの際は、是非もう一つの儀右ヱ門である「gi」まで足を運んでいただければ幸いです。

giのブログ
2006-06-16 09:34 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
らしさって何?
「〜らしさ」って、結構日常的に使うけど、その「らしさ」って一体なんだろう。

「男らしさ」「女らしさ」とか、「子供らしさ」とか、よく耳にするけど、それって前提として「男」とか「女」とか「子供」というもののある固定的なイメージというか、偶像?みたいなものがあって、はじめて成り立つ話だと思う。

じゃあ、「男」って何?「女」って何?みたいな話になるのだけれど、これって、すごく曖昧な気がするのだ。

というか、「男」って概念も、地域や環境によって違うし、ある共通のコンセンサスに基づくことって、すごく難しいような気がする。

「私は、男らしい人が好きです!」

そんなことを言われて、そうか!と思って、自分の中での「男らしさ」を貫いた結果、まったく「らしさ」の捉え方が違ってて、不調に終わる
ということだって、大いにありえそうな気がする。

高倉健みたいに無口な人が「男らしい」という人もいるだろうし、明石家さんまみたいに、やたらと饒舌?というか、喋りまくる人が「ああ、この人は人を楽しませることができる、男らしい人だわ」と思うかもしれないのだ。

それは、要するに「らしさ」というコトバの共有化は成り立たないってこと?

「お前、もっと男らしくせい!」

とか怒鳴られて、ひそかに

(俺は、男らしくしているつもりなんだけどなあ〜)

などと、ぼやくようなこともありえそうだな。

だから、「〜らしさ」などと言うのは、あまり生産的ではないような気がしますね。

そう、時々「専務さんらしくないねえ」とか言われて、じゃあ聞くけど「専務さんらしさ」って何やねん!と感じていたことを思い出しました。

まあ、それは、要するに、その人の「イメージ」ってことだな。

他人の「イメージ」に合わせなきゃいかんのって、たまらんなあ。

素朴にそう思います。
2006-06-15 15:26 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
エレベーターにて。
昨日の晩、マンションの1階まで降りて、ゴミを捨て、自宅に戻るためにエレベーターに乗ったときのこと。

エレベーターには、先客(というのかな?)がいた。50歳くらいのご夫婦であった。

「こんばんわ」「どうもこんばんわ」

何気ない挨拶をして、ふと下を見ると、一匹の犬がいた。ご夫婦のペットである。ええと、この犬の名前は、確かキャバリア、とかいう名前だっただろうか。

「かわいいですね」「そうですか?えへへへ」

再度、何気ない話をして、少し間があった後に、

「僕も犬飼ってるんですよ」と告げた。

「そうですかあ、へえ〜、何犬を飼ってるんですか?」

「プードルです」と僕が答える。

「へえ〜、プードルですかあ、プードルは狩猟犬だからねえ。頭いいんだよねえ。どう?かわいいでしょう?」

と尋ねられた。

そこで、条件反射的に

「うるさいです」

と答えてしまった。



その方は、僕の階の下のフロアで降りられた。

「おやすみなさい」「どうもおやすみなさい」

その方が、降りられたあとで、

うるさいです、と言ったのは、かわいいけど、よく鳴いて、甘えてくるのでうるさいときもありますよ、という意味だったんだあ!などと自分でつぶやきつつ、誤解されなかっただろうか、と心配になったが、後の祭りである。

まさか、まさか「(あなたが)うるさいです」とは思われなかっただろうな?

というか、よく考えてみると、答えになってないよね。問いに答えていない、という奴だな。

というわけで、今日も一個反省しましたが、明日はカイゼンできるのでしょうか?そこが問題だな。
2006-06-14 17:30 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
ひさしぶりの書き込み。   
5月11日に更新して以来、久しぶりの書き込みです。その間、なんと、約1ヶ月間に渡り、書き込みをしておりませんでした。

いったん動きが止まってしまうと、再スタートすることが、いかに大変かを気付かされました。いや、単に、自分がそうなだけかもしれませんが。

毎日、少しづつでも、何かをやり続けることがいかに大切か。そんなことを思いながら、更新しなければ!という自分の中の妙な焦りと、自分の中での億劫な部分がぶつかり合って、結局、弱い自分をさらけだしてしまっている、いやな、1ヶ月でした。

日常生活を過ごしていると、いろんなことに見舞われる。

そして、それは、その人にとっての過酷な状況であることもありえる。

しかし、そんな状況下の中でも、決めたことを実行し続ける人もいて、それは、本当に素晴らしいことだと心から思う。

また、そんな人は、仮に動きが止まっても、再スタートが早い。それは、いろんな意味で「心構え」ができているからなのだろう。

そして、実は、そんな人は、意外と自分の身の回りにもいて、そんな人を見るたびに、心から凄いと思ってしまうし、また同時にそんな人をみたびに、自分はつまらん!と思ってしまうのだ。

先日、ある本を見ていると、ゴルファーの青木とビートたけしの対談の話が載っていました。「量が質に変わるとき」という内容で、試合を1000試合こなすと、今まで見えなかったことが見える、という内容でした。

稚拙でも、みっともなくても、やり続けることで何かが生まれる、そんなようなことを言ってるような気がしました。

そういえば、「小さなことからコツコツと」っていうのもあったな。これって、本当に真実だと思う。

ああ、そうか「継続は力なり」っていうのもあったな。ああ、なんだか、書いてて、ますます自分で落ち込んでいってしまいますけど。

でも、自分は商業人として、落ち込んでばかりもいられないので、とにかく、気分を新たにして、また再スタートしていこう!と思っています。

「最近常務(ちなみに私は専務ですが‥、常務は私の母です。)書き込みないですね」というコメント、というか激励?を寄せてくださった方、どなたか存じ上げませんが、ありがとうございました。

なんか、そんな一言で、凄く救われた気がしました。

今日から、気分新たに頑張ろうと思っています。どうかこれからもよろしくお願いします!
2006-06-13 18:42 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)